大抵の人は、自分以外の人を意識し印象良く思われたれいと思うでしょう。
相手がむくれ顔しているより笑顔でいてくれる方が気持ち良い。
「相手の笑顔が見たいから相手に愛想をふりまくのか、自分が笑顔でいたいから相手に愛想をふりまくのか?」それは、どちらも切り離せない。
相手と共有できる何かを感じたとき、互いに喜びを共有できて自然と笑顔になれる。
しかし、共有できる何かが無くとも、大抵の大人は、世間体や一般常識の様な感覚に影響され社交辞令的な笑顔を作ってくれる。
子どももカメラ慣れしてくると作り笑いが上手にできるようになってくる。
勿論、こういった作り笑いを嫌い写真撮影を嫌がる人もいる。
撮られたくないと思っている人にとって、場合によってはカメラを向けられることにこの上なく圧力を感じることがある。その場合、「言葉の暴力」という表現があるのと同様に「カメラの暴力」と言ってもよいのでしょう。
撮られたくない事情も個々に抱えていますが「撮らないで!」というポーズをとりたい人もいる。
撮影依頼されて撮影しているにも関わらず、写される人が撮られたくないと思っている人である場合もある。
作り笑いをして写真を撮られていると独特な緊張感があり、大人でも子供でも疲れる。
写真は二の次、三の次、どんな人も写真を撮られる為に存在するのではなく、本来の目的の為に写真に写ったり、写真はどうでもよい場合も少なくない。
古い話ですが・・・
相手になるべく疲れを感じさせず楽しいひと時を過ごせたらと思いつつ、八方美人的なシャッターを切ってみると互いの遠慮が写真に写り込んでしまっている。
「なまじ目が見えている分、人の心を感じ取れていないのだろう。」と、ファインダー越しに、そっと目を閉じて目の前の人の心の様子を感じてみた。
出会った時に大事そうにスヌーピーを胸に抱えていた姿がまぶたに浮かんだ。
「あのわんちゃん好きなんだね」っと言うと「わいいちゃんじゃないよ、スヌーピーだよ」と○ちゃん可愛くプンプン顔。
「スヌーピーおやれして可愛いね」と言うと「ママがスヌーピーのお洋服作ってくれたの」と○ちゃんご機嫌な笑顔。
「ママ、お洋服作るのとっても上手だね」と言うと○ちゃん笑顔に○ちゃんママも照れ笑。
楽しい会話は止まらない。
こんな感じで、ファインダーをほとんど覗かずに自然に会話するようにシャッターを切ることができた。
何かを失うことで感覚が鋭くなるのか、視力の無い方が素敵な写真を写されています。
その様な方々は「心の眼で写真を写す」それをできる存在。
自分も心の眼で写真を写す世界に近づけるよう精進しようと心に決めたあの時を思い出す。